始まり ― 何者でもなかった頃
若い頃から、何か得意なことを仕事にできたらと思っていました。けれど、これといった才能は見つからず、印刷会社の会社員になりました。
仕事は単調で、せめて趣味を充実させようと、スポーツやギターを試しました。どれも長くは続きませんでした。
転機は、友人が勧めてくれた一冊の本でした。日本のオートマタの第一人者、西田明夫さんの作品集です。歯車やカムで動く、手のひらの中の小さな機械仕掛け。これなら自分でも作ってみたい、と思いました。
はらだ・かずあき
山口市秋穂で、オートマタというからくり人形をつくっています。妻とふたりで工房「二象舎」を営み、作品づくりのかたわら、ミュゼ・オートマトン、ネスト・オートマトン、カフェ・オートマトンという小さな場所を育ててきました。
そのすべては、ひとつの気持ちから始まっています。「自分が楽しくて、人にも喜んでもらいたい」。ただ、それだけです。
若い頃から、何か得意なことを仕事にできたらと思っていました。けれど、これといった才能は見つからず、印刷会社の会社員になりました。
仕事は単調で、せめて趣味を充実させようと、スポーツやギターを試しました。どれも長くは続きませんでした。
転機は、友人が勧めてくれた一冊の本でした。日本のオートマタの第一人者、西田明夫さんの作品集です。歯車やカムで動く、手のひらの中の小さな機械仕掛け。これなら自分でも作ってみたい、と思いました。
一作目は、本の作例のとおりに作りました。二作目からは、自分で考えて作るようになりました。
作ること自体が楽しく、そして、作ったものを人に見せると「すごい」と喜んでもらえる。そのことが、うれしくてたまりませんでした。会社に勤めながら、空いた時間でオートマタを作り続けました。
二年半ほど続けるうちに、これを仕事にしたい、という思いが強くなっていきました。
その頃、英国の著名なオートマタ作家、マット・スミスさんの作品に強く惹かれていました。工房で学べないかとメールを送ると、「工房が狭く研修生は難しいが、見学なら歓迎」という返事がありました。
それならばと、マットさんの住む町の芸術大学の大学院に入ることに決めました。授業のない日に工房へ通おう、と考えたのです。実際に会いに行くうちに気に入っていただき、研修生として受け入れてもらえることになりました。
一年間、大学院に通いながら、マットさんの工房で学びました。
帰国して、山口市秋穂に工房「二象舎」を構えました。妻のめぐみとともに、オートマタを作る日々が始まりました。
珍しい仕事ですから、ときおり取材を受けます。メディアで紹介されるたび、少しずつ注文が入るようになりました。折よく日本にはクラフトブームの流れがあり、クラフトフェアやギャラリーでの個展を重ねるうちに、仕事は少しずつ軌道に乗っていきました。
やがて活動は、オートマタだけにとどまらなくなります。ある個展で、電子工作を使った射的ゲームやラジコンロボットの競技を展示したところ、これまでとは違う盛り上がりがありました。翌年、山口の文化や歴史を遊びながら学べるゲームの展示が好評を得て、ゲームもつくるようになりました。
見て驚いてもらう喜びが、遊んで楽しんでもらう喜びへと広がっていきました。
展示が終わると、作品やゲームが手元に戻ってきます。しまい込むよりも、来た人に見て、遊んでもらえる場所にしたい。そう考えて、ミュゼ・オートマトンを建てました。
ミュゼを始めると、県外からも作品を見に来てくださる方がいることがわかりました。けれど、この辺りには泊まれる場所が多くありません。それなら敷地の中に、と建てたのが、コテージ「ネスト・オートマトン」です。自然に囲まれ、夜には静けさに包まれる場所になりました。
オートマタも、ゲームも、ミュゼも、コテージも、カフェも。単数形の「Automaton」という名前には、そのすべてをひとつの作品として育てていく、という思いを込めています。
抜粋。年号・名称は現行サイトの記載を踏襲しています。